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広津の歴史

photo 広津区という名称は、現在広荘洞にかかる広津橋周辺の川幅が広い箇所に渡し場があったとされ、「広い渡し場」とも呼ばれた「クァンナル」に由来する。
広津区域に人類が居住し始めたのは、新石器時代に遡り、韓国の歴史の表舞台に登場するのは高句麗、百済、新羅が互いにしのぎを削った三国時代である。 高句麗の長寿王(ジャンスワン、394~491年没、在位413~491年)が390年に漢江の南に位置した百済の都、慰礼城(ウィレソン)を陥落して以来、新羅の太宗武烈王(百済第29代王。在位654~661年)が675年に朝鮮半島を統一するまでの260年余りの間、この地は軍事的要衝として、三国が国運をかけて戦いを繰り広げた舞台であった。

高麗の始祖である太祖王建(テジョワンゴン初代高麗王、在位918~943年)から定宗(ジョンジョン、高麗第三代王、在位946~949年)までは揚州(ヤンジュ)、文宗(ムンジョン、高麗第11代王、在位1046~1083年)以降忠烈王(チュンリョルワン、高麗第25代王、在位1274~1308年)までは南京(ナムギョン、高麗時代四京のうち現在のソウルに該当)、忠宣王(チュンソンワン、高麗第26代王、在位1298、1308~1313年)から高麗末期までは漢陽府(ハニャンブ)と呼ばれ、当時の各地方は豪族勢力によって統治されていたが、揚州地方には目立った豪族勢力が現れず、高麗始祖である太祖王建の進攻により占領され、高麗王朝の直轄地となった。 李氏朝鮮時代には広津区域は京畿道揚州郡古揚州面に属したが、その地では国家の所有する軍馬を飼育し訓練する広い馬場があり、王が随時に行幸に訪れ軍事訓練の様子を参観したという。

日帝時代には京畿道高陽郡纛島面に属し、独立後の1949年8月13日纛島出張所を設置、ソウル特別市に編入された。 1968年1月11日に纛島出張所が廃止され、城東区(ソンドング)管轄下に編入されるも、1995年3月1日中浪川と東2路を境に城東区と広津区に分割され、現在に至っている。 行政洞16(中谷<ジュンゴックドン、陵洞<ヌンドン、九宜1,2,3洞<グイドン、広荘洞<クァンジャンドン、紫陽1,2,3洞<ジャヤンドン、자양동>、老遊1,2洞<ノユドン、華陽洞<ファヤンドン、君子洞<グンジャドン)、面積17.04㎢、人口39万人で構成されている。