洞名の由来

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中谷洞 (ジュンゴックドン)

中谷洞の洞名は、ヌンマル(陵洞)と面牧洞の間にあるので中間のマル、(ガンデッマル)と言ったものを漢字名で表記したこと に由来した。 中谷洞は、朝鮮時代に京畿道 楊洲郡 古楊州面に属したが、甲午改革 (1894)で行政区域を改編する際漢城府に編入され、 南署 豆毛坊(城外) 箭串中契·下契 面牧里洞になった。 日帝初まで京城部 豆毛面 場內 中谷里と呼ばれたが、1914年4月1日京畿道 高陽郡 纛島面 中谷里になった。 1949年ソウル特別市に編入される際城東区中谷里となったことが、1950年中谷洞に改称され、1995年広津区として分区されると 共に広津区 中谷洞となり現在に至っている。

陵洞(ヌンドン

陵洞の洞名は、1904年11月純宗の初の皇后である純明皇后 閔氏の墓域である裕康園(裕陵、ユガンウォン)が設けられ、 陵マル·陵里と呼ばれたことに由来した。 1914年4月1日京畿道 楊洲郡 纛島面 陵里となったことが、1949年ソウル特別市に編入される際、城東区 陵里となった後、 1950年陵洞に改称された。それから1995年広津区として分区されると共に広津区 陵洞になり現在に至っている

九宜洞(グイドン)

九宜洞の洞名は、峨嵯山の麓から漢江辺に至る長い地形の地域として、朝鮮時代に楊洲郡 古楊州面の自然村である九井洞の ‘九’の字と山宜洞の‘宜’の字を合成したことに由来した。九宜洞は、朝鮮時代には京畿道  楊洲郡 古楊州面 九井洞· 山宜洞·栗洞地域であったが、1914年4月1日京畿道 高陽郡 纛島面 九宜里となった。
その後1949年ソウル特別市に編入される際、城東区 九宜里となったことが, 1950年九宜洞に改称され、1995年広津区とし て分区されると共に広津区 九宜洞になり現在に至っている。

広荘洞(クァンジャンドン)

広荘洞の洞名は、朝鮮時代に楊洲郡 古楊州面の広津(クァンナル)の‘広’の字と壯儀洞の‘壯’の字をちなんで合成したこと に由来した。
クァンナルとは、川幅が広い箇所の渡し場あるいは広州への渡し場だったことから名付けられた名称である。
広荘洞地域は、朝鮮時代に京畿道 楊洲郡 古楊州面 壯儀洞と称した。
1914年4月1日広津里·壯儀洞の他に山宣洞の一部を京畿道 楊洲郡に編入して纛島面 広荘里となった。
その後1949年ソウル特別市に編入される際、城東区 広荘里となったことが1950年広荘洞に改称され、1995年広津区として分区さ れると共に広津区 広荘洞になり現在に至っている。

紫陽洞(ジャヤンドン)

紫陽洞の洞名は、朝鮮時代にここで雌馬を飼ったため雌馬場里と呼ばれたことが、紫陽洞に転音されたことに由来した。
朝鮮初めに国が馬1,000頭を飼えば竜馬が生まれるとして、この地域で‘雌馬’を飼ったことから雌馬場と称した。
紫陽洞は、朝鮮時代に京畿道 楊洲郡 古楊州面 雌馬場里 栗洞に属された。その後1914年4月1日雌馬場里と栗洞の一部を統合し て京畿道 古楊郡 纛島面 雌馬場里となった。
1936年 紫陽里に改称され、1949年ソウル特別市に編入される際城東区 紫陽里になったが、1950年紫陽洞に改称された。
1995年広津区として分区されると共に広津区 紫陽洞になり現在に至っている。

君子洞

君子洞の洞名は、昔ある王の一行が渡御中、ちょうどこちら東二路邊(前のナムイル農場地域)で泊ることになったが、 その夜同行した王妃が王子を産んだという伝説から、王様が王子様を産んだという意味に由来した。
1914年4月1日京畿道 古楊郡 纛島面 君子里となり、1949年ソウル特別市に編入される際城東区 君子里となったが、1950年君子 洞に改称された。その後1995年広津区として分区されると共に広津区 君子洞になり現在に至っている。